李香蘭と川島芳子、一枚の紙が分けた命|戸籍謄本よもやま話

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戸籍謄本が李香蘭と川島芳子の運命を分けた表現のイラスト

家系図づくりのために戸籍謄本の取得を重ねるうちに、15年ほど前に夢中で読んだ一冊の本をふと思い出しました。
私にとって戸籍は今、先祖をたどる手がかりであり、「自分がここに存在している」ことを示すツールのひとつです。でもその本の中に、戸籍がそんな次元をはるかに超えた存在として登場する場面がありました。ある人にとって、戸籍は生死を左右するものでした——。

目次

戸籍謄本とは何か|日本独自の「家」の記録

まず、戸籍について少しだけ。日本の現在のものにつながる戸籍制度は、明治初期に始まりました。「個人」ではなく「家」を単位として出生・婚姻・死亡などを記録するこの仕組みは、実は世界でも珍しい制度です。中国や韓国にも戸籍制度はありますが、日本の「家」を軸とした形式とは異なります。

家系図づくりをしていると、戸籍をさかのぼれる限界がこの明治初期ごろにたどり着きます。(明治初期の戸籍作成時に存命している江戸時代生まれの人の生年月日などは載っています)それ以前の記録は、お寺の過去帳など別の資料に頼るしかありません。

🗂️ 家系図調査|時代別にたどれる記録の目安
明治初期〜現在
📄
戸籍謄本
出生・婚姻・死亡を「家」単位で記録。明治初期に戸籍が作られた際、江戸時代生まれの人の生年月日が記載されている場合もあります。
江戸末期〜明治初期
📜
お寺の過去帳など
戒名・俗名・没年などが記録されています。菩提寺に問い合わせることで、戸籍より前の先祖をたどれることがあります。
戦国期〜江戸前期
🏯
記録が少ない時代
武士や公家など一部の家系を除き、一般庶民の記録はほとんど残っていません。古文書や地域史料が手がかりになることも。
家系図調査で先祖をたどる際の時代別資料の目安。地域や家系によって異なる場合があります。

そして戸籍とは、存在の証明でもあります。「この人は戸籍に記載された者である」——それを公的に示す、唯一の書類です。日本国籍の証明は、戸籍への記載によって間接的に示される仕組みです。

戸籍の形式は時代によって異なりますが、どの時代のものも、本籍と戸主(今でいう筆頭者)およびそれに紐づく人物、さらにその前後をたどることができる方式があまりに秀逸で、戸籍調査を深めれば深めるほど、制度や仕組みを考えた人の創意工夫に畏敬の念すら抱きます。その仕組みが秀逸であるだけでなく、この紙が、ある時代に「命」と直結した瞬間があったという事実に今あらためて思い出しました。

こけしママン

以前読んでいた李香蘭の本の戸籍謄本にまつわる逸話を思い出した時、フラグ回収した気分でした!

李香蘭の裁判|日本人形の帯に仕込まれた戸籍謄本

李香蘭(山口淑子)の名前と生没年1920-2014と書かれたアイキャッチ

第二次世界大戦後の中国、1945年のことです。「李香蘭(り こうらん)」という名で知られた歌手・女優が、漢奸——つまり祖国を裏切った売国奴——の容疑で軍事裁判にかけられていました。

李香蘭の本名は、山口淑子。満洲生まれの、日本人でした。日中戦争のさなか、日本の国策として「中国人スター」として売り出された彼女は、流暢な中国語と美しい容姿で一世を風靡しました。しかし日本の敗戦後、「中国人でありながら日本に協力した」とみなされ、有罪なら銃殺刑という状況に追い込まれます。

「李香蘭は来週、上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう」——そんな予測記事が新聞に載るほどでした。

このとき、彼女を救ったのが幼なじみのソ連人、リューバでした。 北京の淑子の両親のもとを訪ねたリューバが持ち帰ったのは、一体の日本人形。 その帯のほころびの中に、小さく折り畳まれた戸籍謄本が仕込まれていました。娘に危険が及ばないよう、両親が人形に忍ばせた知恵でした。

その戸籍謄本が、山口淑子の日本国籍を証明し、命を救いました。

なお裁判では、そもそも「戸籍」という制度自体が中国に存在しなかったため、日本留学経験のある中国人に戸籍の説明を依頼したといいます。異国の法廷で、日本語の書類の意味を説明しなければならなかった——そんな場面を想像すると、戸籍という制度の特殊さを改めて感じます。

こけしママン

そもそも「戸籍」という制度自体が中国に存在しなかったため、法廷では日本独自の戸籍の説明がなされたとのこと。——戸籍という制度の特殊さを改めて感じます。

川島芳子の裁判|戸籍に入っていなかった清朝の王女

川島芳子(愛新覺羅顯㺭)の名前と生没年1907-1948と書かれたアイキャッチ

同じ時代に、もうひとりの「ヨシコ」がいました。

川島芳子。本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくら けんし)。清朝皇族・粛親王の第十四王女として北京に生まれ、8歳のとき日本人の川島浪速の養女となり、日本で育ちました。「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」として知られ、日本軍の諜報活動にも深く関わった人物です。

山口淑子と川島芳子は、実際に面識がありました。二人とも「ヨシコ」という名で、淑子は芳子を「オニイチャン」と呼んでいたといいます。

日本の敗戦後、芳子もまた漢奸の容疑で逮捕されます。芳子自身も必死に日本の戸籍謄本を手に入れようとしました。しかし——養父の川島浪速は、芳子を養女として戸籍に入籍していなかったのです。戸籍謄本は存在せず、日本人と証明する手段がありませんでした。

1948年3月、川島芳子は漢奸として銃殺刑に処せられました。こんな詩を残したといいます。

家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず 冤(ぬれぎぬ)あれども誰にか訴えん
こけしママン

時代と国に人生を翻弄され、傷つき、断髪して男装し、清朝の復興を夢見ながら戦乱の大陸を生きた芳子の哀れさを感じます。

ふたりの「ヨシコ」、運命を分けたもの

山口淑子は生きて日本に帰りました。帰国後の彼女の人生もまた、波乱万丈でした。

山口淑子として女優活動を再開し、渡米してシャーリー・ヤマグチの名でハリウッド映画にも出演。ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと出会い結婚しますが、数年で離婚。その後、8歳年下の日本人外交官と再婚し、女優業を引退しますが、49歳でテレビのワイドショー司会者として復帰。世界各地へレポーターとして赴き、金日成や日本赤軍の重信房子にもインタビューしています。1974年には参議院議員に当選し、3期18年間務めました。

📅 山口淑子(李香蘭)の軌跡
1920年〜2014年 激動の時代を生き抜いた94年
名前・肩書き できごと
1920年 山口淑子 満洲(現・中国東北部)の奉天に生まれる
1930年代 李香蘭(芸名) 日本の国策として「中国人スター」に。流暢な中国語と美貌で一世を風靡。代表曲「夜来香(イェライシャン)」
1945年 山口淑子 裁判漢奸容疑で軍事裁判に。幼なじみリューバが届けた日本人形の帯に戸籍謄本が仕込まれており、日本国籍を証明。無罪・帰国
1950年代 シャーリー・ヤマグチ 渡米しハリウッド映画・ブロードウェイに出演。彫刻家イサム・ノグチと結婚(1951年)・離婚(1956年)
1958年〜 山口淑子 外交官・大鷹弘と再婚し女優業を引退。49歳でテレビ司会者として復帰。パレスチナ・カンボジアなど紛争地帯への取材も積極的に行う
1974年〜 山口淑子 参議院議員に初当選。3期18年間務める
1998年 山口淑子(78歳) 再会エカテリンブルクにてリューバ(78歳)と53年ぶりの再会。NHKで放映
2014年 山口淑子(94歳) 逝去。享年94歳
山口淑子(李香蘭・シャーリー・ヤマグチ)の生涯年表。「李香蘭、私の半生」(山口淑子・藤原作弥著)をもとに作成。

李香蘭時代の代表曲「夜来香(イェライシャン)」「蘇州夜曲」は、多くのアーティストに歌い継がれ、今や国境を越えたチャイナ・メロディーの代表曲となっています。戦時中に生まれた一曲が、時代を超えて愛され続けている——これもまた、山口淑子という存在の大きさを示しているような気がします。

川島芳子は異国の刑場で、41歳の生涯を終えました。ふたりとも、時代と国家に翻弄された女性でした。その運命を分けたのが、戸籍謄本の有無だったというのは、なんとも皮肉で、切ない事実です。

最後に|戸籍謄本は、その時代を生きた存在証明

家系図をたどっていると、戸籍は先祖を「知る」ための道具だと思っています。でもこの話を思い出してから、戸籍は「存在を証明する」ための、ときに命がけの書類でもあったのだと、より重みを感じるようになりました。

李香蘭の自伝を夢中で読んだ15年ほど前の当時、山口淑子さんはまだご存命でした。あんな激動の時代を生き抜いた人と、自分が同じ時代を生きているということが、不思議でたまりませんでした。生きた歴史がそこにある、という感覚でした。

山口さんが亡くなって10年以上が経ち(当時ニュースになりました)、家系図作りのために戸籍調査をすることになりました。先祖の名前をたどりながら、ふと、私もまた、ある一つの時代を生きている人間なのだと思います。

限りある命を、思う存分生きたい——今より一層、そう思います。

🪆 こけしママンの引き出し
「養子」と「戸籍」、時代と国をまたぐと常識が変わる

家系図調査をしていると、ときどき「え、これって……?」と首をかしげる記録に出会います。

たとえば昭和初期の戸籍。長子が生まれてはじめて婚姻届を出す、というケースが珍しくありません。少なくとも私が調べた家系では、何度も目にしました。

📜 なぜ子どもが生まれてから婚姻届を出したのか

理由はひとつではないと思いますが、当時は「三年添って子なきを去る」という言葉があったほど、子を産める女性であることが正式な妻として認められる条件のひとつでもありました。子の誕生をもって婚姻届を出す、というのはその慣習の反映かもしれません。

※ 加えて、交通手段が限られた時代に役所へ届けを出しに行くこと自体が一大事だったという背景もあったと思われます。(こけしママン考察)

今の常識で見ると「え?」となる記録も、当時の生活背景や慣習を知ると自然と納得できる。それが家系図調査の面白さでもあります。

🌏 国をまたぐと、さらに「常識」が変わります

李香蘭こと山口淑子は、日本名のほかに中国名も持っていました。父親の友人であった中国人要人ふたり——瀋陽銀行頭取の李際春将軍と、のちに天津市長となる潘毓桂——それぞれの養女(乾女児)となり、「李香蘭」という中国名を得たのです。川島芳子が川島浪速の養女となったのも、同じような背景があったと考えられます。

当時の中国や満洲には、縁を深めるために互いの子どもを義子とする慣習がありました。これは戸籍を移す法的な養子縁組ではなく、互いの姓で子女に名前をつけあうような、人と人とのつながりを示す習慣です。今の日本でいう養子縁組とは、意味合いがまったく異なります。

だから「戸籍に入っていない養子」という状態も、当時の感覚では不自然ではなかったのかもしれません。川島芳子が日本の戸籍に入れてもらえなかったことも、この文脈で考えると少し見え方が変わってきます。

戸籍という制度ひとつとっても、時代が違えば、国が違えば、その意味はまるで変わります。

家系図調査をしていて一番おもしろいのは、そういう「常識の外側」に触れる瞬間です。昔の人が「いい加減だった」のではなく、私たちが知らないだけで、そこには必ずその時代・その土地なりの文脈があった。

様々なことを知ることで、遠い時代の人にも、異なる文化を生きる人にも、少しだけ想像力が届くようになる気がしています。

参考文献・あわせて読みたい本

李香蘭こと山口淑子本人が語った自伝。満洲での少女時代から裁判、帰国後の女優生活まで、激動の時代を生きた一人の女性の声がそのまま伝わってきます。李香蘭と名乗るようになった経緯も必読です!

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